欺
「…お珍しい」
部屋に入った途端そんな言葉が口をついて出た。
執務室の椅子に深く腰掛け、転寝をしている様子の勘兵衛を七郎次は物珍しいものを見るかのような視線で眺めた。
寝所でも滅多に勘兵衛の寝姿を見かけることは無い。七郎次よりも後に寝て、七郎次よりも早く起きるのが常だからだ。
眉間にしわを寄せた難しい顔は相変わらずだが、その顔に普段は見せることの無い疲労の色が漂っているのを見て七郎次はそっと眉を顰めた。
その頬に思わず手を差し伸べかけて、火に触れたかのごとく慌てて腕を引く。
気配に敏い勘兵衛のことだ。触られただけで目を覚ましてしまうだろう。
折角身体を休めている勘兵衛の眠りを妨げてはいけない。
そう思いつつも、引き寄せられるように居眠りをする勘兵衛へと七郎次は近付いた。
まるで誘蛾灯に手招きされた夏の羽虫のように、その先に待っているものが危険なものだと判っていても。
己を留める事が出来なかった。
足音は立てない。
極力起さぬよう気配を殺したまま。
俯き加減で眠る勘兵衛の前で敬虔な信者が祷るかの如く膝をつき、畏れ敬う神への密やかな愛を捧げる様に寝顔を見上げるような形で僅かに顔を傾けた。
やめろと囁く頭の中の声を聞こえない振りをする。
自らの理性に蓋をして、感情に引きずられるまま、そっと顔を寄せる。
息を潜め、微かに震える唇を勘兵衛の唇に重ねようとした瞬間。
勘兵衛の眼が開いた。
咄嗟に逃げようとした七郎次は腕を掴まれ、逆に引き寄せられた。
バランスを崩し、勘兵衛に抱きとめられるような形になった七郎次の頬が羞恥に紅く染まる。
離れようと必死にもがく七郎次の腕を強引に捕らえ、勘兵衛は七郎次の顔を覗き込んだ。
「何故逃げる」
勘兵衛の真っ直ぐに己を見つめる透徹な視線を受け止めることができずに七郎次は視線を地面に落とした。
「…申し訳御座いません。戯れが過ぎました」
「戯れか」
本当にそれならどんなにか良かっただろうと七郎次は自嘲した。
冗談だと笑い飛ばす事ができたなら。
けれど、自分が仕掛けようとした口付けは本気だった。
例えほんの僅かに触れるだけでも構わない、と。其れほどまでに焦がれた。
「…本当に眠っていらっしゃるのか確かめようと思ったのですが、どうやらお邪魔をしてしまった様子。大分お疲れのようですので、本日は早めに仕事を切り上げて身体をお休めになっては如何で御座いましょう」
歪みそうになる顔を誤魔化すように口数を増やして表情を繕う。
だが自分が何も無かったように笑えているか自信が無い。
服越しだというのに、触れられた身体が此れほどまでに熱い。
「明日は出席しなければならない会議もあります故、時間を割けるのは今日しかないかと」
「七郎次」
呼ばれてほとんど反射的に顔を上げ、勘兵衛の眸に目線を向けた。ほとんど無意識の内にその眼に浮かぶ意図を読もうとして。
あまりに近しい距離にあった、その沈んだ眼の色に魅入られた。
後頭部に手を置かれ、さらにその眸が近付き。
あ、と気づいた時には吐息が重なっていた。
唇に熱い感触が触れる。
勘兵衛の波打つ髪が帳のように七郎次の顔を覆った。
歯列をなぞり、奥まで探られる。
吐息まで奪われるほど深い口付け。
互いの唇が離れた時には息が上がっていた。
は、と熱の篭もった息を吐き出しながら七郎次は呆然と先ほどまで唇を交わしていたとは思えないほど平静な表情を浮かべる勘兵衛の顔を見つめた。
「……どういう、おつもりですか」
意図せず声が震えた。
心が揺れる。揺らされる。
何もかも見通すようなその静寂を湛える視線が自分の隠している何もかもを暴いてしまうかのような錯覚に囚われ、耐え切れずに眼を伏せた。
「おぬしの仕掛けた戯れであろう。それを返したまで」
その言葉に密かに唇をかみ締める。
「…然様で」
翻弄される。
甘さよりも苦さを舌先に覚えて胸の奥がざらついた。
僅かに触れるだけでも良いと望んでいた筈なのに、勘兵衛の心が自分にないということを思い知らされただけで口付けの喜びよりも胸の痛みが勝る自分の身勝手さに渇いた笑いしか出てこない。
「ではその戯れ、他ではなさいませぬよう。本気にする者もいないとは限りませぬ故」
「おぬしのようにか」
微かに揶揄を含んだ勘兵衛のその言葉に。
一瞬目の前が怒りのために真っ赤に染まった。
「……っ!!」
気がつけば勘兵衛の胸倉を掴んで血を吐くように叫んでいた。
「どうせ貴方は私の心など当にご存知なのでしょう…っ!」
視界が歪み、勘兵衛がどのような表情を浮かべているのかも見えなくなる。
堪えようにも堪えきれず、七郎次の頬を熱いものが伝った。
「だというのに、そ知らぬ振りをして、あまつさえ其れを弄ぶ様な貴方のこの為さりようは…余りにも、惨う御座います…っ」
「愛想が尽きたか」
深く沈むような声が七郎次の耳に飛び込む。
「ここを去るというのならば好きにするがいい。このような主に仕えずとも、おぬしならば他に幾らでも良い扱いをしてくれる仕官先があろう」
其の言葉にはっと蒼い眸を見開き。
「いいえ」
考えるまでもなく、否定の言葉が口をついた。
「この七郎次の主は唯一人勘兵衛様のみ。例えどのような仕打ちを受けましょうとも、主を違える事などありませぬ」
ぐい、と袖で涙を乱暴に拭うと真摯な眸で勘兵衛を見つめた。
逸らす事などしない。
思慕の情は変わらず有る。けれど、それ以上に。
勘兵衛と共に在ることが自分にとっての全て。
その決意が伝わったのか、厳しい表情を浮かべていた勘兵衛の顔がふと緩んだ。
唇に浮かんだのは苦笑。
「儂と共に戦場に立つということは勝ち戦には無縁ということだ。勝利の美酒などに酔えはせぬ。口にするのは負け戦の苦い味ばかりになろう」
「存じております」
「金にも出世にもならぬ」
「元より承知」
「おぬしを殺すのは儂かも知れぬぞ」
「何を今更!」
貴方に殺されるならば本望で御座います、と晴れやかな笑顔で七郎次は答えた。
お粗末!
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