想
障子の向こうに人の気配を感じ、手酌をしていたカンベエはふと其の手を止める。
幾年経ようと馴染んだ気配は変わらない。
「カンベエ様、失礼致します」
扉の前で一呼吸置いて声をかける癖も昔の通り。
ただ。
すらり、と静かに障子を開ける仕種にカンベエは離れていた間の年月を見て取った。
空に居た頃。シチロージがカンベエの副官として動いていた頃はどれ程注意しても扉の開け閉めに大きな音を立てていたのを懐かしく思い出す。
「お待たせしました」
頭を下げながら入ってきたシチロージが手にしていたのは三味線。
もの問いたげなカンベエの様子にシチロージは眦を下げ、見よう見まねで覚えた芸では御座いますが、とへらりと愛嬌のある顔で笑った。
知らぬ表情だ、とカンベエは思った。
酸いも甘いも噛み分けたようなそんな表情はきっとこの蛍屋で身につけたものなのだろう。
そして。
ふと、カンベエの視線が三味線から流れ、ある一点で止まった。
其のカンベエの目線を無意識に追い、シチロージの視線が自らに落ち。
はっと息を呑んだシチロージが咄嗟に隠そうとした左の義手をカンベエが押さえた。
「隠さぬとも好い」
「ですが」
熱の無い手を握るカンベエの眸は穏やかで責める色は全く無い。
其れでも恥じるように俯いたシチロージの左手をカンベエは己の右手で包み込み。
掌を重ね、指と指を絡ませた。
其の仕種にまるであの頃の空にいるような錯覚に囚われる。
生還の誓いを込めて部隊全員の手の甲に彫られた花の形の刺青。
戦の前には手を繋ぎ、皆で花の輪を咲かせて檄を飛ばすのが常だった。
其の頃を思い出し、失ってしまった六花弁の幻を己の機械の手に見てシチロージは不意に泣きたくなるような気持ちになる。
絆が。
未だに繋がっていると云うのか。
「カンベエ様」
喘ぐ様に名前を呼び、その懐かしさに胸が詰まった。
もう二度と、この恋しい名前を呼べる日は来ないと、目覚めて傍にカンベエが居ないと知ったあの日から思い続けてきた。
「シチ」
肩を抱き寄せられ、吐息が重なるほどの距離で互いの顔を見詰め合う。
そっと、頬に大きな掌が添えられ。
「おぬしは変わらぬな」
昔と変わらぬ優しい笑みに知らず涙が零れた。
「カンベエ様こそ…よく、ご無事で…」
様々な感情がシチロージの胸を焼く。
この島田カンベエという男を、魂が焦がれていた。
「今生で再び見える事ができるとは…思っても居りませんでした。きっと、カンベエ様に詫びることができるのは黄泉路であろうと…そう、思っておりましたから」
ならばこそ。
ずっと、悔いていた。
イツモフタリデと誓い、けれど自分ひとりだけがおめおめと生き残ったことを。
そして絆である左手を失った事を。
死ぬならばいつでもできた。
だが、生き延びよと。其のカンベエの言葉だけが罪悪感に押し潰されそうなシチロージを生かした。
「儂も、お主を先に冥府で待たせて居るとばかり思うておった」
あの時。
どんな事があろうとも手を離すべきではなかったと、思い返すたびに悔やんだ。
己が生きる事を優先した、其の代償はこのどうしようもない空虚感。
例え他の何を失っても、これほどまでに喪失感は抱かなかっただろう。
長い大戦の最中、幾度もこのような出会いと別れを繰り返してきたのだ。
だというのに。
シチロージを手元より失ってから、今まで事あるごとに脳裏に思い浮かぶのはその涼やかな眸。
それがどれほど大事なものであったかを。
失ってから気づいた。
救えなかった事を、助けられなかった事を、死なせた事を、そして失った事を其の虚無感と無力感と共に思い知らされた。
だが。
「生きております」
シチロージは万感の思いを込め、絡めた指にそっと力を入れて握った。
「私も、カンベエ様も」
「そうだな」
頷き、カンベエは冷たく硬い手触りの手を愛しげに握り返した。
「きっと、花が巡り合わせてくれたのでしょう」
散っていった六花弁たちが、咲いた花を、落ちたとはいえ未だ生きている花と。
戦場にもう一度咲かせよとばかりに出会わせてくれたのです、とシチロージは呟いた。
お粗末!
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