散華(後編)




いつかは絶対に知らなければならない事実だった。
其れでも、告げるのは早すぎたのかもしれない。

ユキノは青年の睛を見る度に、そう思わずにはいられなかった。
まるで空の様に心を映して色を変えていた蒼の睛は今は生気を失い硝子のように唯目の前に在るモノしか映してはいない。
大切な何かが壊れてしまった。
あれ以来、青年は一言も発する事は無く、感情が全て抜け落ちたかのように表情というものが無くなった。

其の泣く事すら出来ぬ絶望を。
ユキノは哀しいと思った。



それから3週間。何も食べず、何も飲まず。
青年は唯只管に緩やかな死を望んでいるように見えた。
其の衰弱してゆく躯を、しかしユキノは唯黙って見ていたわけではない。
宥め、賺し、泣き落とし、怒る。自分に出来る事は全てやった。
自害を恐れ、刃物だけは青年の近くに置かぬよう気を配りながら、その他の必要だと思えるものは全て揃えた。
けれど。
無理やりにでも食べさせれば、身体が受け付けぬかのように青年は全て戻した。
動く事すら忘れたかのように寝床に横たわり、ぼんやりと天井だけを睛に映して毎日を過ごし。
点滴だけで生き延びているかのような日々が続いた。


其れでもユキノは諦めなかった。
青年の世話を人任せにはせず、女将としての仕事の忙しい合間を縫っては彼是と世話を焼いた。
どんな陰口を叩かれようとも絶対に止めようとはしなかった。
側に居る時は出来るだけ話しかけるように努め、何か珍しいものがあればすぐさま青年へと見せた。
其れでも青年は何の反応も見せず、唯壊れたまま。
右手で己の失った左腕を抱き、凝っと硝子のように虚ろな睛で見えぬそらを眺めていた。





其の日も何時ものようにユキノは女将の仕事の僅かな合間を見計らって青年の部屋へと来ていた。
折りしも満月。寝床からでも蛍の光とほんの僅かな空の隙間から姿を現した月を見せようとユキノは閉め切っていた障子を開いた。
「今日は満月だよ。ここからじゃあまり見えないけどねェ…」
軽く微笑んで立ち上がる。
本日も蛍屋は盛況だ。お客様を待たせたまま青年の傍にいつまでも居るわけには行かない。
部屋を出て行きざま、ユキノはふと気になって後ろを振り返る。
だが、青年はいつもと変わりなくぼんやりと宙空に視線を彷徨わせたまま動く気配はなかった。


その様な状態であったから、其れを目にした時はまさかと思った。
客も引き、静まり返った朝も近い時間。中庭を見下ろす欄干、其の場所に青年はいた。
思い通りに動かぬ身体を這うようにして引きずってきたのだろう。着ていた寝巻きは乱れ、だらしなく床に足を投げ出して座り込んでいる。
だが、ユキノはそれだけでも酷く驚いた。
身体の具合もだが、元より青年には既に身体を動かす気力すら無いと思っていたのだ。
生きる事を手放したような睛がユキノの心には焼き付いている。
其れ程絶望が深かった。
それが、どうしてと。
不思議に思いながらも、とてもではないが動ける状態ではないのに、と慌てて近寄ろうとして。
其の足が止まった。
青年が僅かに胸を上下させて無心に見上げるは、ふかく深く遠い空。
呆然と仰向けた其の顔に一筋の涙が伝い落ちた。
郷愁、思慕、追懐、想慕、思恋、寂寥。
届かぬ思いが青年の顔を切なく彩り。
やがて、その表情が歪んだ。
痛みではない。苦しみではない。
ただ深い絶望と嘆きがその胸を苛むかのように。
失った左腕の付け根を押さえ、青年は声を出さずに慟哭した。

何故。
どうして。

と幾度も繰り返し。


何故貴方との絆である左手を持っていってしまったのですか。
どうせなら、此の命ごと連れて逝けば好いものを。


歯を食いしばり、押し出すかのように呟いたのがユキノの耳に小さく響いた。
見てはいけない、聞いてはいけないと思いながら、ユキノはその場に立ち竦んだまま動けなかった。


いっそのこと一言死ねと云ってくだされば私は喜んで貴方の後を追ったのに。
とうに貴方に捧げたこの命。果てるまで付き従い、死ぬ時も共にと誓った。

其れが。
五年。
五年です。
あれから五年も経って。
私は生きているのに、貴方は此処に居ない。
…イツモフタリデと、誓ったのに。

此れきりです。
もう二度とこんな事は云ったりしない。
だから。


胸を穿つ哀しみと行き場のない怒り。
それまで凝っていた感情が溢れ出したかのように、止め処なく青年の口から零れた。


憎い。
貴方が憎い。
生き延びよと云った貴方が憎い。
私は。




貴方と共に空で死にたかった。




其の切ない願いにユキノは胸を突かれた。
此れは恋慕の情だ。
青年の口から切々と綴られる恨み言は己を一人残した相手に対しての届かぬ思い。
堪らなくなり、ユキノは顔を覆った。
青年と重なる想いなど、した事はない。
此れ程の情を抱いた事すらない。
なのに、己の心奥深い所まで揺さぶられるのは。
何よりも青年がありのままの自分を全て曝け出しているからだ。


貴方の遺した言葉のせいで、後を追うことすら出来ない。
貴方を失い、左手を失い、六花弁を失い、絆を失い、死ぬ事すら許されず。
此の私に何を支えに生きよと云うのです。

恨みます。
居残りはもう御免だと、あれ程云いましたのに。
…私を連れて逝くことすら、してくださらないなんて。


青年の遣る瀬無い思いがユキノにさえ伝わってくる。
心が痛み、どうしようもなく涙が溢れた。
嗚咽を必死に押し殺す。
それ以上聞いていられずに、ユキノはその場から逃げ出した。





何処をどうやって自分の部屋まで戻ってきたのかはわからない。
寝床にもぐりこんだものの、ユキノは一睡も出来ずに唯泣き続けた。



翌日、ユキノは彼女の真っ赤に腫れた目を見た従業員たちによって、其の日の仕事は強制的に休みにされ。
何があったのかは知らないが、と心配する従業員たちに、ユキノは心配を掛けてすまないね、と謝った。
突然暇になってしまったユキノは、だが青年の部屋へと赴くのを躊躇った。
青年の事は非常に気になってはいたが、あの姿を見て顔をあわせるのは正直気まずい。
しかし、あの後きちんと自分の部屋へと戻れたのだろうか。途中で倒れては居ないだろうか。
そう考えれば考えるほど気になり、結局の所いてもたってもいられず立ち上がった。

迷った挙句に其れでも気になり、青年の部屋をそっと開けて覗き込んだユキノは。
寝床を片付け、端然と膝を揃えて座っていた青年を見て息を呑んだ。
目を瞑っていた青年が其れに気づき目を開く。
水を湛えたような蒼の睛がユキノを真っ直ぐに見つめた。
「昨日は見苦しい所をお見せして申し訳ない」
そう云うと青年はユキノに向かって頭を下げた。

「シチロージと、申す」

痩せ細り、やつれて青白い顔ながらも其の睛には生気が戻っている。
だが、何か決定的なものが欠けてしまった青年に対し、ユキノは零れるような優しい微笑みを向けた。





此処は癒しの里。
身体だけではなく、心も癒えるまで。
此処で休んでおゆきなさいと。
優しく労わるように、慈愛の女がそう云った。









お粗末!