Stay by my side




いつものように背後から髪に触れる手に兵護は微かな違和感を感じた。
僅かに荒れた所作で久蔵の指が兵護の髪を撫でる。
苛立っている。
珍しい、と思いながらもこのような時は余計な事を言わないに限るとばかりに兵護は止める言葉を吐かずに好き勝手させていた。
掬った髪を手櫛で梳き、指を絡ませ解く。
兵護は眼を閉じ、其の髪に触れる指の動きを感覚で追う。
以前髪を弄られているときに本を読んでいたら何が気に入らなかったのか、本を取り上げられ手の届かぬ所に投げ捨てられた。其れ以来兵護はこの時だけは何も出来ずに、唯久蔵の気が済むまでじっとしている。
飽くことなく繰り返されるいつもの戯れ。
不意に。
後ろ髪を強く引かれ、強引に顎を上げさせられた。
「おい、久…っ」
痛みに顔を顰め、文句を言おうとした兵護の言葉が途切れる。
「―――――っ!!」
仰け反り露わにされた無防備な白い喉に。
噛み付かれ、歯を立てられた。
思いもかけぬ刺激に喉が引き攣る。
「っ、ぁ…!」
思わず零れそうになった悲鳴を噛み殺し、眉を寄せて痛みに耐える。
「久…蔵…っ!!」
怒気が篭もった兵護の声に漸く久蔵が口を離した。
血の滲んだ噛み痕をぺろりと舐めると、其の侭兵護の首筋に顔を埋める。
反省の色の無い其の行動に、怒りのまま背後の身体を振りほどこうとして。
(…―――?)
ふと兵護は久蔵にいつもと違うものを感じて、動きを止めた。
温かい。
髪を弄られる事は在っても、互いの肌に触れ合う事は滅多に無い。
人の熱を久方ぶりに感じたからかと思いかけ、だが以前に傷の手当てをした時のひやりとした久蔵の肌の感触を思い出し、兵護は眼を見開いた。
自分が温かいと感じるということは久蔵の身体から伝わる体温が自分よりも高いという事を示している。
「おい、久蔵!」
よくよく耳を澄ませば、常は規則的な呼吸が僅かに乱れている。
久蔵に今まで熱が在ることに気づかなかった自分の迂闊さに兵護は舌打ちした。
行動が可笑しいのは何時もの事だが、様子が可笑しいのならば尤気にするべきだった。
此の男が具合が悪かろうが傷が痛もうが何も云わないのは端から判っている事。ならば自分が気づくべきだったのに。
後ろを振り向こうとして身動ぎした兵護に何を思ったのか、其の身体を久蔵は逃さないと云うかのように力を込めて抱き締めた。
「…久蔵」
嘆息交じりに名前を呼び。
「何処にも行きはせぬ。唯おぬしの様子が気になるだけだ」
口調を和らげた其の言葉に久蔵の腕の力が緩んだ。
其の隙に兵護は自らの身体を反転させ、久蔵と正面から向き合う。
赤蘇枋の眸が微かに潤み、目元が薄らと赤く染まっている。
典型的な熱の症状だな。
そう判断し、兵護は一瞬だけ躊躇い。
逡巡を振り払うかのように久蔵へと右手を伸ばした。



久蔵が兵護に触れる事はあっても、兵護から久蔵に触れた事は今まで殆ど無い。
けれど其の数少ない経験を久蔵は忘れては居ない。
安心できる手だと知っている。
自分を傷つけない手だと理解っている。
だから、動かずに唯黙って兵護の挙動を見守った。
白くほっそりとした長い指が自分のほうへゆっくりと近付いてくる。
よく見れば傷だらけで節くれ立った武骨な其の手を久蔵は美しいと感じた。
掌が自分の額に当てられる。
ひんやりとした感触に思わず息をついた。
気持ちよさに眼を閉じる。
感じていた身体のだるさが微かに軽くなったような気がした。



「矢ッ張り熱があるな」
手から伝わる熱は思っていたよりも高く、兵護は思わず溜息を吐きそうになった。
どうしてこう成るまで放っておくのか、此の馬鹿は。
「医務室へ行け。衛生兵に薬を貰って飲めば、明日には熱が引いていよう」
「…要らぬ」
掠れた声で久蔵は首を横に振った。
「其のうち治る」
「だから早く治すために薬を飲むのだろうが」
「寝ていれば治る」
「きちんと寝床に横になるなら別だが、おぬしの"寝る"では治るものも治らんだろう」
普段から寝る時も用心して寝床に横たわる事の無い久蔵の寝姿を思い出して兵護は呆れたように呟いた。
まるで警戒心の強い野生の獣だ。
そう思った兵護の前で久蔵はむ、と口を引き結び。
ごろりとその場に横になった。
「…こうして眠れば好いのだろう」
駄々っ子か、コイツは。
そう思いつつ、相手が病人だとあっては常の対応は出来ず、迷った挙句に再度溜息をついた。
「おい、久蔵」
此方に背を向けた形で横たわっている久蔵の頭の近くまで寄り声を掛ける。
と。
「…うた」
「は?」
「眠れぬから…何か謡え」
小さく呟かれた其の言葉に兵護は思わず、馬鹿め!と怒鳴りかけて。
唐突に気づいた。
目の前で駄々を捏ねている此の男は自分が傍から離れる事を恐れているのだと。
気づいてしまえば、後は弱い。
元来、情に脆いところのある兵護はこうやって頼ったりしてくるものを放っておけない性格だ。
相手が弱っているのなら尚更のこと。

毒を喰らわば皿までという言葉が頭を回る。
こうなったら仕方が無い、と腹を括って。
「膝を貸してやるから頭を乗せろ」
久蔵はちらりと視線を寄越すと無言で兵護の膝に頭を乗せた。
足に掛かる重みをくすぐったく思いながら兵護は右手で久蔵の眼を覆う。
せめて自分が今どのような表情を浮かべているかを見られないように。
「…謡は上手くないぞ」
「構わぬ」
間髪居れずに返された応えに嘆息し、兵護は意を決して口を開いた。
「…迷いに深き人の世は 四苦を定めと思えども…」
微かな声で、途切れ途切れに口ずさむ。
紡がれる謡は唯一人の為のもの。
久蔵の口の端に素直な笑みが上った。
だが其れは誰にも知られる事はなく。

「好い声だ」
「…五月蝿い」
笑みを含んだ久蔵の声に、黙って寝ろ!と兵護は照れ隠しに小さく怒り。
其れでも久蔵が眠りに入るまで兵護は幾度も謡を繰り返した。