玉響
「…其れじゃあ、旦那方、アタシはちょいと失礼させて貰いますね」
ごゆっくりとお楽しみ下さいまし、と酔いを見せぬ細面に莞然とした笑みを乗せ、シチロージは頭を下げた。
其の拍子に帯に挟んだ扇子がするりと抜け、ごとりと形からは想像も出来ぬほど重たげな音を立てて床に落ちる。
「おっと、いけねェ。こりゃあ、失礼を致しまして」
慌てたように其れを拾い上げ、おどけた仕種で頭に手をやったシチロージに客のアキンドたちは興味を引かれたような視線を向けた。
其れに応え、シチロージは手にした扇子をはらりと開いた。
一見した所、黒染めの竹で出来た骨を使い、月に叢雲の図案の描かれた何の変哲も無い女物の風流な扇子。
だが、普通の扇子にしか見えない其れは通常木や竹で出来ている骨に鉄を用いている鉄扇と呼ばれている護身用の武器だ。
「此れですか?まァ、何かあったときの用心の為に持たされているだけでゲスよ。野暮なものを振り回すお方が居ないとも限りませんしねェ」
この鋼の左腕で十分だ、と云うシチロージに心配したユキノは半ば問答無用で其れを仕立てた。
そんな中、唯一シチロージが注文をつけたのは其の扇面の図案。
唯、一言「…月を」と呟いた彼にユキノは何も尋ねず、希望のものを作らせた。
だが、月に叢雲を掛けたのはせめてものユキノの意地だったのか。
敢えて其の意図を問うような事はせず、シチロージは其の鉄扇を身につけている。
見かけよりかは遙に重量の在る鉄扇を普通のものと同じように軽々と扱い、閉じると懐に仕舞う。
そうして再度客たちに向かって頭を下げるとシチロージは次の座敷に向かう為に立ち上がった。
******
暖かい部屋から廊下に出た途端、薄い羽織を羽織っただけの身体に木枯らしが身に沁みた。
季節は冬。だというのにこの店の名の由来となった蛍の淡い光が中庭の彼方此方にふわりと幻想的な趣で浮かんでいる。
「おお、寒い寒い」
ぶるりと震え、シチロージは羽織った薄紫の女物の着物を襟元で掻き合わせる。
さぁて、次の座敷は…と考えながら、冷たい廊下を裸足で歩いていると、ふと前方に客の一人であろう男がぼんやりと立っているのが見えた。
この寒いのに一体如何した事でしょうねェ?と頭を傾げつつ、酔い覚ましか何かだろうと思い直し、それ以上気にもかけずに「ちょいと御免なさいよ」と擦れ違う。
ちらりと、眼の端に捉えた姿は随分と派手な色に彩られていた。
だというのに、擦れ違うまで気づかなかったのは男が自分の気配を殺していたからだろう。
其の力量はかなりのもの。だが、敢えて其の男が何者なのかを考えないようにシチロージは足を早め。
懐かしい「空」の気配が。
不意に、掠めた。
思考よりも先に身体が反応する。身を翻し、振り向くと同時に上段から振り下ろされた剣撃を鋼で出来た左腕で受け、更にもう一段、右下から斜めに弧を描いて疾った斬撃を反射的に懐から取り出した鉄扇で受け流す。
鋼の噛み合う音が人気の無い廊下に殷々と響いた。
「ちょっ、旦那!行き成り何ですかぃ―――…っ!!」
サムライとして生きていたのは既に過去。碌に鍛錬もしていない鈍った身体で此れだけ反応出来たのは奇跡だ、そうしみじみとシチロージは冷や汗をかきながら思った。
だが、慌てた声とは裏腹に酷く冷静にシチロージは相手の両手から変幻自在に繰り出される刃を捌いてゆく。
例えるなら其れは流水。敢えて勢いに逆らわず、受け、流し、そして弾く。
相手は客だ。可能かどうかは兎も角として、攻勢に出た挙句、怪我をさせるわけには行かないという意識が防戦一方のシチロージにはあった。
唯。
此れは唯の戯れだ。現に殺気があったのは最初の一撃のみ。
相手は本気では、無い。
其れがシチロージの意識にちくりと針で刺されたような微かな不快感を齎していた。
だが、其の事を極力意識しないように声を張り上げる。
「お客さん、酔ってらっしゃるので…っ!?」
誰かが其れを聞きつけ、駆けつけてくれれば御の字。
だが、淡い期待は其の瞬間直ぐ側の座敷でどっと上がった喧騒の音にかき消される。
其れなのに、シチロージの耳には男の唇から漏れた低い呟きがはっきりと届いた。
「…酒では酔えぬ。戦や、」
男の両の手に在る双の切っ先が庭に在る灯籠の灯を反射して涼やかに輝く。
「血でなければ、な」
おぬしも同じであろう、と囁かれ、シチロージの穏やかに凪いだ湖のような眸に苛烈な光が燃えた。
其の姿は正しくサムライ。
だが、一瞬で其れは掻き消え、蒼の眸は再び表面上は静穏を結んだ。
「冗談がお上手なことで!ですが旦那、此処は癒しの里。生憎と抜刀はご法度ですよ」
穏やかな声音の中に潜む剣呑さを敏感に感じ取った相手の唇が撓んだ。
其れを眼にしたシチロージの表情が変わる。
男の唇に閃いた渇いた嗤い。
嗚呼、好く知っている。
此れはサムライだ――――。
其の瞬間、背筋にぞくりと走ったのは戦慄か其れとも愉悦か。
思わず、大戦時代は肌身離さず持っていた朱に塗られた己の得物を無意識に探そうとして手が彷徨う。
空に居るときは何時も共に在った、戦艦が移動する独特の腹に響く重低音や機械サムライの起動音は此処にはない。
相変わらず耳に入ってくるのは蛍屋の其処此処から響く喧騒、笑いさざめく声、女の嬌声、お囃子の音、三味線の音。
けれど、確かに。この身を切り裂くような冷たい風は、成層圏へと届かんとする、あの空の風――――!
そう思った瞬間、記憶と感覚が重なり、心が空へと引き戻される。
其れまで澱んでいたような感覚が研ぎ澄まされたように鮮やかなほどはっきりとした。空気の流れさえ鋭敏に感じる。
そして身の内に湧いたのは怒り。但し、其れは刀は御法度である、この"癒しの里"で刀を抜いた相手の無法さではなく、手加減されたという事実に対しての怒りだ。
馴染んだ武器は手中には無い。
だが、どんな得物でも使えなければ生き残れないあの戦場に居た自負がある。
シチロージは姿勢を低くし、右手に鉄扇を構えた。
基本は右手は攻撃、鋼の左手は防御に。だが、逆も然り。己に使えるものは何でも使う戦法は仕えていた主譲りのものだ。
己の手持ちの札、地形、気候、それら全てを考え合わせ、頭の中で幾種類もの戦い方を組み立てる。
シチロージが本気になったと見たか、相手の男の放つ気配も殺気を孕んだものへと変わった。
物騒な気配を察したか中庭の蛍の姿が何時の間にか消えていた。
冬の寒さを好んで味わおうという人間はいないらしく、何時も誰かしら居る廊下にも人影は無い。
ぽっかりと空いた刹那の間隙。
張り詰めた空気が静かに動いた。
踏み込みは同時。
横薙ぎに切り払われた右の刃をシチロージは左手で受け、力任せに振り払った。
開いた懐にすかさず飛び込もうとして、下から上へという軌跡を描いた男の左の刃に其れを防がれる。
数歩下がったシチロージに追いすがるように男は詰め寄り、両手の刃を同時に左右から振り抜いた。
交錯する光。
其の鮮やかな切っ先からひらりと身をかわす動作と共に薄紫の羽織が翻った。
くく、と幇間の衣装を身に纏った一人のサムライが喉奥で嗤う。
懐かしい此の感覚。
最早自分にとって本能に等しいのだろう、斬り合いを楽しむという事は。
この身体は、戦い方を忘れてなど居ない。
眠らせていたはずの身の裡に巣食う獣は容易く理性を食い破る。
狂え。
狂え。
狂え。
戦いに狂え。
血に狂え。
もっと猛り狂え。
戦いに身を染めた、あの時に戻れと咆哮する衝動を捩じ伏せる努力を放棄し、唯心の赴くままにシチロージは手にした武器を振るった。
鋼と鋼がぶつかり合い、火花が散る。
其の刹那の煌きが夜の闇を彩った。
******
ふと、盛り上がる座敷のにぎやかさとは別に高く響く音が聞こえたような気がして、芸妓の一人は酌をしながらはんなりと首をかしげた。
気のせいかしら?
幻聴だったのかと思いかけて、もう一度外に意識を向けて耳を澄ます。
―――凛、と。
今度ははっきりと聞こえた。
何の音なのか。不安よりも好奇心の方が勝り、芸妓は酌をしていたお銚子をさりげなく置くと、近くの障子を小さく開き、そっと外へ身を乗り出す。生温い部屋の空気に凍てつくような風が混ざり、芸妓はふるりと寒さに身を震わせた。
矢ッ張りやめておけばよかったと後悔しかけ、闇に淡く浮かび上がった光景に眼を見開く。
蛍の光よりも尚鮮烈に、其の命よりも果敢なく消え去る一瞬の綺羅の光が宵闇に乱舞する。
振るわれる刃と噛み合う度に響く剣戟の恐ろしさに悲鳴を上げるよりも、其の余りの美しさに息を呑んだ。
完成された剣舞のような二人の動きに思わず見蕩れ、声も無く見入る。
其の芸妓の後ろに何時の間にか気配も無く立ち、同じ光景を見ていた男は溜息をつくと。
「…――――女」
そう、声を掛けた。
「ひゃっ、は、はいっ」
驚き振り返った芸妓に男は酷く冷ややかな眼を向け、ゆっくりと言葉を吐いた。
「今見た事は誰にも喋るな」
わかったなら、さっさと戻れ。
威圧感に圧倒された芸妓がこくこくと言葉も無く頷くのを尻目に、男は廊下に出てゆくと後ろ手に障子を閉める。
そして。あの莫迦め、と苦りきった顔でひとりごちた。
******
打ち鳴らす刃の音に微かな呼吸音が混ざる。
上がる息を極力押さえ、吐き出す息と共にシチロージは一歩前へ踏み出した。
其れを牽制するかのように、飄、と風を切り裂く音を立てて光が奔る。
男が振るった左の刀をシチロージは右手に持った鉄扇で受け止め、絡めとった。
己に向けられた切っ先を地へと強引に下げ、更にシチロージは其れに足を掛ける。
体重を掛けて折ろうとしたのを察したか、咄嗟に男は態勢を崩す前に其れから手を離した。
そして隙を見せずに右手の一本となった刀を左手に持ち替えたところで、ふと男の気が自分から逸れたのをシチロージは感じた。
「其処までにしておけ」
苦々しげに廊下に響いた声に男から戦意が消える。
同時に、シチロージも我に返った。
何をやっているのかアタシは。
此処は「空」では無いというのに。
呆然としていたのは一瞬。
はっと気づき、シチロージは足元に転がっていた刀を慌てて拾い上げると男に向かって差し出した。
「…忝い」
小さく呟き、受け取ると男は両手の刀を変型の鞘に仕舞う。
其の男に対し、新たに現れた男は苦りきった声で小言を連ねた。
「全く、あれ程問題を起すなと云って置いたであろうに」
「…」
うんともすんとも云わずあさっての方向を向いた相手に小さく溜息をつき。
今度はシチロージに向け、新たな男は何処か翳りを纏った顔を向けた。
「済まぬな。此方のものが迷惑を掛けた」
「…全くで。今度からは抜刀だけは勘弁して頂きたいものですねェ」
「判っている。次はこのような事にならぬよう、しっかりと言い聞かせておくゆえ、この事は内密にしてもらえると有り難い」
「まァ、此方もお相手しちまいましたから、おあいこという事で」
「すまぬ」
其処で男はふと目を眇め。
惜しいな、と一言呟いたのがシチロージの耳に届いた。
「…確かにコイツが手合わせを望むことはある。機会があれば俺とも是非手合わせ願いたいものだが」
「勘弁してくださいまし」
もう懲り懲りでゲスよ、と肩を竦めたシチロージに対して、男は強い視線を向けた。
「こんなところではなく、おぬしの腕を生かすことの出来る場所へ来ぬか」
其の目線をシチロージは真正面から受け止める。
何を言われても揺るぎはしない。
確かに先程は思わぬほど戦いに酔い痴れ心躍らせた。
正直、此処での在り方を忘れるほどに。
サムライとして生きた証をこのような形で突きつけられ、戻りたいと一瞬でも思わなかったといえば嘘になる。
だが、自分は此処での平穏な暮らしが気に入っている。
そして。
"戻りたい"と思ったのはあの「空」、あの「時間」であって、「サムライに」ではないのだ。
今生で唯一人と定めたあの主以外に仕えるべき主など居はしない。
「サテ、何のお話で御座いましょ」
シチロージは手にした扇で自らの秀でた額を軽く叩き、
「アタシゃ、唯のしがない太鼓持ちで御座いまして。下手な三味線くらいしかご披露できる腕はありゃァしませんねェ!」
サムライではなく、幇間の顔でそうカラリと笑った。
お粗末!
霜月様より4000HITの斬り番リクエストで御座いました。
因みに頂いたお題は「シチロージVSキュウゾウ」で御座います。
……キュウゾウ、名前が一切出てきておりません…。なので、シチさんが誰と戦っているのか判らなかった方も居られると存じます。不親切な出来で申し訳御座いません。
大層判りづらい小話と相成りましたが、本人は実に楽しく書かせて頂いておりました。趣味に走りすぎて途中で本当に如何しようかとも思いましたが…。
ですが、書く甲斐が在るリクエストを允に有難う御座いましたァ!
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