宵闇に咲く




「ヒョーゴさん」
穏やかに静まり返った夜更けの刻。
御前の護衛の仕事も終え、自室で一息ついたところで、部屋の外から聞き知った声がひっそりと自分を呼んだ。
紅紫に染めた長い髪を流し、女物の着物を羽織ったボウガン使いの男。
キュウゾウ以外の人間がこんな時間に訪れる事は非常に珍しい。
何の用かと思いつつ、自室の障子を開くと其の割合整った顔ににっこりと満面の笑みを浮かべた男が口を開いた。
「桜、見に行きませんか」
「…このような夜更けにか」
呆れたようにヒョーゴは呟く。
だが、其の何処か尻尾を振る犬を思わせる態度に、断わるとにべも無く云うのも気が引けた。
正直疲れている。早く休んで明日に備えたいというのが本音。
しかし、考えてみれば、確かに今は桜の季節。
空に居た頃は戦艦の上から山が桜色に染まるのを見て、酒や肴を持ち寄っては花見や何だと宴会めいた騒ぎをしていたのを懐かしく思い出す。
時折風に乗って、花びらが戦艦まで届いた。
其れが戦で荒んだ心をどれだけ癒した事か。
「夜桜って云うのも乙なものですよ」
耳に入って来た言葉に過去へと戻っていた意識が引き戻される。
「夜桜か…」
御前の広い庭園にも何本かの桜の木が植えられており、其れが咲いているのが護衛の度に目の端に引っ掛かってはいたものの、意識して見た事は無かった。
「今日は天気も好いですし。ね、一寸だけですから」
常には無く強引に誘う相手に僅かな思案を巡らせ、偶にはこういうのも好いかと思い、ヒョーゴは頷いた。
「そうだな、いってみるか」





鼻唄を歌い出しそうなほど浮かれた男を見てヒョーゴは苦笑した。
自分が、一緒に居て面白みに欠ける人間だというのは自覚している。
口煩く、雰囲気の読めない生真面目な男。昔からそう云われ続けてきた。
その様な俺と行ったとてつまらないであろうに、と思ったが口には出さなかった。
男の気分が移ったか、何処かヒョーゴも自分の心が浮き立つのを感じる。
このような気分は久しぶりだ、と思ったヒョーゴの顔には自分でも知らぬうちに柔らかな笑みが浮かんでいた。



連れて来られたのは、御前の持つ広い庭園の端の方。
ぐるりと屋敷を囲む壁に程近い、屋敷や回廊からは先ず死角にしかならない場所。

其処に幾本も立ち並ぶ満開に咲いた桜が月に照らされ淡く紅に染めた花びらを音も無く風に散らしていた。

其の美しさにヒョーゴは言葉も無く見入った。一瞬で心を奪われる。
「如何ですか」
「凄いな…。まさかこんな場所が在ったとは知らなかった」
心此処に在らず。正にその表現通りの様子で呟いたヒョーゴに男は酷く満足げな顔をした。
この場所を見つけたのは自分と仲が良いセンサー男であって、己の手柄ではないが、自慢げに胸を張る。
「でしょう?此れをヒョーゴさんに是非見せたかったんです」
嬉しそうな男の言葉が耳に入っていないような様子でヒョーゴは惚けたように桜を見詰めた。
其の横顔に男は見惚れる。強引にでも連れ出して本当に好かったと、そう心底思った。

花吹雪というに相応しく、深々と降り積もる散り行く花びらはまるで雪のように。
思わず、差し伸べた掌にひらりと一枚の花びらが誘われたかのように舞い落ちてきた。
壊れ物のように其れをそっと手に包み込むと、ヒョーゴは改めて桜を見上げる。
闇の中に仄かに紅く色付く幻想的な儚い命。
其れをサムライという運命と重ね、胸に痛みが微かに走った。

この花と同じように潔く散り往くべき時に散る事が出来たのなら。
こんな、想いも。

好い酒も持ち出してきたんですよ、と云う声にはっとして振り向くと酒の入った徳利と杯を掲げる男が愉々と笑んでいた。
「生憎と杯は一つしかないので、その…」
「俺はいい。折角の好い酒なのだろう?おぬし一人で飲めば好い」
「…」
其の言葉を聞いて露骨にがっかりした男にヒョーゴは面食らう。
「な、何だ。如何した」
「ヒョーゴさんと一緒に桜を見ながら飲むのを楽しみにしてたんです…」
項垂れて蚊の鳴くような声で呟いた男に溜息をついて。
「…わかった。一緒に飲むか」
「はいっ!」
現金なほど元気になった男の様子にヒョーゴは苦笑を零し。
密かに矢張りコイツは犬を連想させる、と思った。


酒の満たされた杯に降ってきた一枚の花びらが浮かぶ。
ゆらゆらと揺れる水面に映る景色を認め、ふとヒョーゴは頭上を振り仰いだ。

宵闇の空を広く彩る花の隙間から、皓皓とした淡い光を纏う月の姿が確かに輝いている。

昼間では味わえぬ其の妙なる光景を噛み締め、ヒョーゴは目を細めた。









お粗末!