散華(前編)
死んだように眠っていた青年が目を開いたのは未だ夜も明けないうち。
意識もはっきりしていないのか夢現の様にぼんやりとした口調で「カンベエ様、は…」と誰かを探すような目線を彷徨わせた。
「好かった」
生と死の狭間を彷徨っていた青年が意識を取り戻したことに安心し、思わず零れたユキノの声に反応したのか視線が彼女の方へと向けられる。
失望の色がその蒼の眸に浮かんだのを目敏く見つけて、ユキノは僅かに眉を寄せた。
「生憎とあたしが助けたのはお前さん一人きりだよ」
其の言葉に青年の顔色が変わった。
「戻らないと…」
囈のように呟きながら、起き上がろうとするのを慌てて止める。
「お前さん、未だ動ける身体じゃないんだ」
しかし、傷だらけの身体の何処を触れたらいいのかわからず逡巡しているうちに、
藻掻いていた青年の動きがふと凍り付いたように止まった。
信じられないものを見るかのように己の身体を眺め。
「ひだりうでが」
抑揚の無い言葉がその血の気の失せた唇から滑り落ちた。
だが、青年が自失していたのはほんの一瞬だった。
澄んだ眸に浮かんだ絶望の色が諦めに変わっていくのをユキノは堪らない気持ちで見た。
きっと、傷を受けたときに覚悟はしていたのだろう。
其れでも、いざ其の現実を眼にして受け入れる事がどれほど辛い事なのか。
わからずとも、余りの痛ましさにユキノは床に視線を落とした。
「私が見つけた時にはとうに腐っていて、お医者様には切らなければ命に関わるといわれたから」
承諾も得ずに御免なさい、とユキノは青年に頭を下げた。
生命維持装置から出てきた青年の左腕は黒く変色しており、一目でもう駄目だと知れた。
切らねば生きる事は適うまい。
故に、ユキノは其の醜い腕を眼をそらすことなく見つめた。
記憶に閉じ込めるように。
ふと、その青年の黒く壊死した手の甲に刺青があるのが見て取れた。
六つの花弁を持つ華を模った意匠。
癒しの里でサムライを相手にする事は儘有ること。
其処で聞いた話をユキノはその刺青を見た瞬間に思い出していた。
仲間との、絆だと。
あるものは懐かしげに。あるものは愛しげに。あるものは切なげに。
其のことについて話したものたちは皆一様に穏やかな顔で自らの手に刻まれたその刺青を見つめていた。
形はそれぞれ違っていたが大切なものなのだろうと、その表情だけでも判った。
青年の腕にも同じようなものがあったということは、当人にとっては大事な絆なのだろうと思うことしか出来ない。
だが、拾い屋ユキノとしては青年の思い出よりも其の命を拾いたかった。
其れでも謝って済む事ではないと唇を噛んだユキノの耳に掠れた声が届いた。
「…有難う」
死を誉れとする、サムライの姿を幾人も見てきた。
生き延びた事を嘆く、サムライの自嘲を幾度も聞いてきた。
だからこそ、どのような罵声を受けても仕方がないと覚悟していたユキノに其の言葉は余りにも意外なものだった。
「命と腕なら、俺でも命をとるさ」
思わず顔を上げたユキノに青年は微笑んで見せた。
「助けてくれて、有難う。アンタは命の恩人だ」
しかし其の空を思わせる青年の眸に一筋の陰りが過ぎったのをユキノは見逃さなかった。
矢張り、この青年も死を望んでいたのかと思いかけて。
「戦場では生き延びる事が何よりも優先されると、教えられたからな…」
呟かれた言葉で違うと気づいた。
名残惜しげに青年の視線は自らの左手があったのであろう場所を見つめている。
青年の言葉は、まるで絆である左手に刻まれた花よりも大事なものが有ると、言葉にする事で自分に言い聞かせているようだった。
ふと物思いに耽っていた青年の顔がユキノのほうへと向く。
僅かにばつの悪い表情が其の顔には浮かんでいた。
「そういや、アンタの名前も聞いていなかった」
「ユキノ。蛍屋のユキノだよ」
「ユキノか。好い名前だ」
眦を和ませ、けれど青年は決して自らの名を云おうとはしなかった。
意を決して青年の名前を尋ねようとしたユキノから視線を外し、青年は天井を見つめて独り言のように呟いた。
「…早く、戻らないと」
一瞬、何処へ?と云いかけ。
青年の其の焦燥の込められた言葉が何を示しているのかに気づき、ユキノの鼓動がどくんと一つ大きく弾んだ。
空に、戦場に、戻らないと。
嗚呼、この人は知らないのだ。
そうだ。知るはずが無い。
生命維持装置の中でずっと眠っていたのだから。
彼にとって戦場は未だに在り続けているのだろう。
だからこそ空へ還る事が、当然だと。
彼を、そして彼が待つ人の居る処へ。
戻る場所はとうに無いというのに。
如何すればいいのか、判らなかった。
ぽろりと零れた涙を青年が伸ばした右手の指が拭い、初めてユキノは自分が泣いている事を自覚した。
「何を泣く…?」
ユキノを見つめる澄み切った空の蒼が彼女の心を貫く。
告げなければ成らない。
この残酷な現実を、事実を、時の流れを。
そして其れを告げられた青年の心を思って、ユキノは声を出さずに泣いた。
「…御免なさい、突然泣いたりなんかして」
落ち着くまで、そう時は必要なかった。
困ったような顔をした青年はユキノが泣いている間中、何も言わずにユキノの手に自らの手を重ねてくれていた。
本当は背中を撫でるのが一番落ち着くだろうとは思ったんだが、と苦笑いし、青年は溜息をついた。
思い通りにならない身体。
もどかしい思いを押し隠し、空へと逸る心を宥める。
其れでも、命さえあれば何時でも駆けつけることができると。
思って、いたのに。
「おサムライ様、どうか心して聞いて頂戴」
怖いほど真剣な顔でユキノは口を開いた。
躊躇いをねじ伏せ、だが如何告げようかと言葉に詰まる。
「…おサムライ様は川を流れてきた冬眠装置に入っていたの」
敵の脱出艇を見つけて転がり込んだ事は覚えていた。痛みの感覚すら無くなり、だらりと下がったままになった己の左腕のことも。
もう駄目かと思いつつ、あの方の言葉だけを支えに足掻き続けた。
生きていれば、逢えると。
其の一念で動かぬ身体を引き摺るように冬眠装置の中に入り、其処で記憶は途切れている。
起きたときには此の天女と見紛う程美しい女が心配げに自分を見つめていた。
傍に居たのがあの方ではない事に失望し、けれどこのように美しい女が居るのであれば黄泉の国も悪くは無いと思ったのは秘密だ。
そして今、其のユキノと名乗った女は心臓が痛むような顔で、言葉を迷いつつ選んでいる。
厭な予感がした。
「…最初、見た時は死んでいると思ったわ。だって」
客をおだてる時は滑らかに言葉を綴る口が、此れほどまでに重い。
「戦が終わってから、5年も経っているのですもの」
「え…?」
嘘だ、と思った。
この女は何を云っている。
あれから5年も経っているだなんて、何の冗談だ。
笑えない冗談だと、云おうとして。
ユキノの顔に浮かんだ表情に其れが嘘でも冗談でもない事を知る。
眼を見開き、信じられないことを聞いた顔で青年はユキノを見つめた。
呆然とした表情に痛みを覚えながらも、ユキノは続けた。
「今は元和八年。北軍は負けたと聞いたわ」
其の言葉に。
青年の中の何かが壊れた音をユキノは聞いたと思った。
散華(後編)へ続く!
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